(追記)私はハンチントン病の当事者ではなく、どこまで行っても介助者
病気や介助・介護に対して何にも心構えが出来て居なかった頃、妻の話しを聞いていても、病院で一緒に説明を受けていても、体験談をお聞きしていても『私は当事者ではない』と感じていた。
どんなに勉強して知識を深めても(検査をしていないだけで0では無いが)遺伝のリスクを負っていない以上、知ったような事を言うのはやめよう、どんなに傍に居て理解しているつもりでもその一線を越えてはいけない様な気がしていた。
小学校の時に、日常生活も困難なレベルの知的障害を持った同級生が居た。
学年は同じだったが、授業は特別支援学級という別の担任が受け持つクラスになり、運動会や遠足、修学旅行は同じ様に行動していた。
当時、引っ込み思案な私は付き添って面倒を見る様にとよく一緒の班になっていた。子供時代に、自分が当たり前だと思っている事が当たり前では無い方も居ると学ばせて貰えた。
お陰で妻が行きたいと言えば躊躇無く、車イスでスーパーや観光地へドライブに出掛ける事が出来ている。
積み重ねた時間が膨大なものになった現在の『当事者ではない』という意味。病気や境遇、ハンチントン病の様に遺伝という不安について知れば知るほど想像出来ない深く暗いものを感じる。だが同時に、私自身も中途半端な気持ちで向き合っているつもりはないので、可笑しな表現になるが蚊帳の外にいる様で寂しさも感じている。私は、ハンチントン病になりたいとは思わない。完治させたい、助けてあげたい、最後まで傍らに居てあげたいと思うけど、決してなりたいとは思わない。以前、妻との会話で「自分が同じ病気になればして欲しい事がちゃんと分かってあげられるのに」と言った事があった。直後にもの凄く怒られて、自分の病気が確定した時以上に泣かれてしまった。「自分は傍にいて上げられないから同じ病気じゃなくても何もあって欲しくない」と言われて、その時初めて自分が考えていた事は本当の寄り添いではないと教えられた。
病気を発症する前から根本にある考え方、『妻と私の立場が逆だったらどうして欲しかったか』。妻が病気を理由に、私の元から去っていくのは恐ろしい。
だからこそ、周りの私を心配する人々が提案してくれた離縁や離婚という妻の元を離れる選択肢を真っ先に消すことが出来た。
同じ事を何度も話さなければいけない面倒臭さや噛み砕いて説明する煩わしさには慣れないが、周囲の協力を得るには必要な事。
例え、施設に預けてしまえば全て解決すると頑なに主張される方にも、自宅で私の傍らに居る意味を少しでも分かって欲しいと思う。
妻の介助者になれて、本当に良かった。そして、一日でも長く傍に居て欲しい。
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