スパルタな日常リハビリ
ゴールを決めない散歩
妻のハンチントン病が判った際に、医師からも行政からも今ほど情報が無かった当時のインターネットからも寝たきりになると宣言されてしまった。それでも自宅での生活を続けたいという妻の意思を尊重(真に受ける?)する為に、病院以外にも自分たちで出来る事を探す事にした。
まず、寝たきり=足腰が弱くなった人という安直なイメージからとにかく歩く事にした。お互いの仕事が終わると近所をグルグル回ったり、遠出を試みては、行きで体力の限界を迎えてしまい帰りはバスや電車で帰ると言うリハビリなのかどうかも分らない事まで行っていた。※当時、ポケモンGOやドラクエウォークがあったらと心底思う。
家では話さない様な些細な事も、歩きながらだと間を埋めようと自然に出て来る。それが意外と盛り上がったりするのが楽しかった。
家の中でもリハビリ
家の中でも柔軟をしてみたいり、箸を使った指先の練習で競ってみたりしていた。
意外と効果があったのは、当時発売されていたGBA(ゲームボーイアドバンス)。その中でも、リズム感と反射神経に『リズム天国』、手元にあるカードを覚えておきながら競う『桃太郎電鉄G』、ブロックの重なりと消す手順を考える『上海アドバンス』に妻は熱中していた。
私は優しくないので、手を引いて一緒に行動するという選択ではなく、トイレや廊下に手すりを付けまくって自分で行きなさいと言っていた。日常作業にも手を貸さず、終わるまで横にいる事にしていた。
最初の頃は一緒に料理をしたりしていたが、徐々にエスカレートしていったと自覚している。
時間が掛かっても出来る限り手を出さずに自分でさせていた。食パン1枚を食べきるのに1時間を費やし、足元にはフライが出来るぐらいパン粉が落ちていた事もあった。
歯磨きが終わった後に、パジャマと床がビショビショになっている事もあった。
思い込みと勘違い
当時の口癖は、「出来なくなるよ!」。これは、妻が想像していた自宅生活では無かったかも知れない。優しく手を取って、上げ膳据え膳でやってくれる事を願っていたのかも知れない。
リハビリがリハビリで無くなり、「今まで」という呪縛に取り憑かれていたのではないかと思う。この頃は、傍にいて欲しかった・傍に居て上げたかった妻を日常的に叱っていた。
発語が難しくなってからは、なぜ出来ないのかをなぜ説明出来ないという、会話ではなくただただ本人を追い込むだけの行為もしていた。
その事に気が付いたのは、些細な事だった。靴のマジックテープが上手く貼れない妻を残し、先に行こうとした時に【自分がしたい事はこんな事だったかな?】と思い、何気なく妻の手を取って靴を履かせて上げた。そして、なんの躊躇もなく「ありがとう」と言われた時にこれでいいんだと感じた。
別にありがとうというのは何度も言ってくれていたし、そういう場面があった事は私も覚えてはいたが、その時の「ありがとう」は何か特別な物に感じた。
それからは、会話や散歩は続けたかったからそれに関わる事は 「出来なくなるよ!」 と言い続けたはしたが、それ以外は2~3回手間取る様なら加勢をして上げる様になった。
今、思う事
あの時に気が付けなければ、自宅介護どころか妻の横には居れなかったと思う。
妻の変化に、私自身がついて行けてなかったのではないかと思う。
変わっていくのが怖がっていたのだと思う。
今だから思えるのは、結婚をして性格が変わる人もいる。歳を重ねて考え方が変わる人もいる。体型が変わる人もいる。ハンチントン病以外の病気で寝たきりになる人もいる。ハンチントン病以外の事で意思疎通が出来なくなる人もいる。
他の方も病気や事故の有無に関わらず、恋人や夫婦であれば自然と考えると思う
私はどこに惹かれて一緒に居ようと思ったんだろう。何が好きで 一緒に居ようと思ったんだろう。 私たちが一緒に居る為の形ってなんだろう。
まずこれを考える事自体を楽しもうと考えた。そうすれば、そんなに悪い方向に行かないかも知れないと早速実践してみたが、慣れない事で気恥ずかしで挫折しかかったが、回数を重ねると慣れる様で今でも続けて居られる。
妻のリハビリは、私のリハビリなのかも知れない。
心の声
・こちらも人間。こちらも人間。無感情の介護ロボットにはなりたくない。
・リズム天国は続編を含めて今でもやる。switchで出して欲しい。
・介護のプロではなく、妻のプロになりたい。どうせならS級ランクで。
・酷い事?時効×2。今でも悔いはするけど、懺悔では介護は出来ない。心の別腹ならぬ別部屋に入れてる。
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