(転記)ハンチントン病を介護し続けた祖母
交際時は別の病気だと言われていた
当時は、住まいがあった熊本県水俣市に住んでおられたので、祖父も水俣病と言われていたらしいと父親に言われたが確かではない。
また、以前も掲載させて頂いたが、交際当初にご挨拶をさせて頂いた際には、母親は水俣病で亡くなり子供に影響が出ていないのは母親が自身の身体で悪い物を受け止めてくれたお陰だとご説明を受けた。
だから、妻は健康に育ってくれたとお話しされていたし、妻にも子供の頃からそういう話をしていたらしい。
交際中に祖母の家がある水俣市へ行き、お墓参りと水俣病資料館を見学させて頂いた。
その際にも、自分もこうなっていたかもと暗い顔をしていたが母親が守ってくれたと資料を真っすぐ見つめていたのが印象的だ。
連絡をせずみお伺いしたので、ご自宅には祖母は居られずその時はご挨拶をする事は無かった。
勿論、それがきっかけで離縁していた可能性もゼロではない。
『水俣病だった』と言う言葉と資料館の凄まじい現実を目の当たりにしたただけで、【本当に大丈夫なのか?】と思わなかったと言えば嘘になる。
そして、水俣病にしろハンチントン病にしろ、その時に現在の状況を受け入れる覚悟など微塵も無かった。
むしろ離縁という決断をしていたかも知れない。
妻の祖父と母親とその姉弟
・祖父は昭和40年代には他界されており、祖母の話しでは今考えると同じ様な症状だったという。
・長女の妻の母は、娘2人。妻の姉と妻だ。父親は、母親の実家がある熊本で働き生活を共にしていたが、発病後は妻姉妹を育てる為に母親の介護を祖母に託して、籍を抜かれて実家に戻られた。以降、年 1~ 2 回のペースで会いに行かれていたとお聞きしている。
この遺伝するかしないかのサイコロには本当に驚かされるし、イカサマ無しの本当に残酷なものだと思う。
これを命の選別だと言われる方も居るし親の責任だと言われる方も居られる。
これは、別の体験談を踏まえて考えを掲載したと考えている。
祖母にご挨拶
妻の話しでは、お墓があるお寺とはかなりの距離があるという事だったが、自転車でもお墓参りに行ける距離に移られていた。
残念そうな顔はされたが、「久々に見てそうじゃないかと思った」という返答は、当時の私にはとても意外な言葉だった。
しかし、今なら何となくお気持ちは判る。
もしかしたら、曾祖父・曾祖母のどちらかも発症されていた可能性がある状況を乗り越えられて来た祖母は、症例の少ないハンチントン病に対する経験値はもの凄いものだっただろう。
「車から降りる様が、お母さんにそっくりだね。それに、あなた(私)が歩くのに不自由が無い場所で自然に手を差し出していたのをすぐにわかったよ」
時間的には、昼食をはさみながら4時間は滞在させて頂いただろうか。
これからの事を慮って優しい言葉で、時には妻や父親には聞こえない様にされながら私たちの今に繋がる貴重なお話しをして頂いた。
そして、アルバムの中から母親の全身写真と妻らと戯れる貴重なお写真を数枚頂戴した。
初対面の私にそこまでお話し頂いて本当に感謝しかない。
後日談
ご近所の方に伺ってみると、身体を壊されて病院に入院されているという事だった。
その旨を父親にお話しして、身寄りになっておられるご親類に現状を確認して貰い、お元気だと判った。
2度目は、退院されたとのご連絡を頂いたので 日本ハンチントン病ネットワーク交流会に参加するのに合わせて記念撮影をした写真を持ってお伺いさせて頂いた。
しかし、入れ違いで施設に入所されてしまっていた。
この時、既に車イスに乗っていた妻を連れて行くのは申し訳無いと思い、コンビニで急ごしらえのお手紙を認めて写真と一緒にポストに入れておいた。
もし叶うのであれば、今度は介護の事ではな無いお話しをしてみたいです。
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